上杉謙信の死因の真相は?今も語り継がれる名言や実績も解説

上杉謙信の死因の真相は?今も語り継がれる名言や実績も解説

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上杉謙信は、「厠で倒れてその場で亡くなった」という説もありますが、実は史料ではそんな”トイレ説”ではないようなのです。この記事では、上杉謙信の死因や戦国最強武将としての実績や天下を獲れなかった理由も含めて、上杉謙信の人物像を読み解いていきます。NHK大河ドラマ『天地人』での描き方とも重ねてみると、より立体的に感じられるでしょう。

目次

上杉謙信の死因の真相

上杉謙信の死因は、「厠で倒れて即死」という通説よりも、脳卒中や急病による病死が有力視されています。

天正6年(1578年)3月9日に次なる遠征に向けての準備をしている最中に春日城内で倒れ、4日後の3月13日に亡くなりました。

(引用:米沢観光Navi)と記されており、卒中風(現代でいう脳出血や脳梗塞に近い)と考えられ、現代の研究では脳卒中が死因の主流です。

また、場所に関しても厠ではなく書斎や閑所で倒れたとする読み方も有力で、通説の「トイレで倒れた」は史料の誤読や軍記物語の影響が大きいとされています。このように上杉謙信の死因は、「劇的な即死」よりも、一定の病床を経て亡くなった「病死」が最も自然な解釈です。

「トイレで死んだ」という通説

「上杉謙信は厠で倒れてその場で亡くなった」という話は非常に有名な通説ですが、実は史料の解釈が大きく関わっていると考えられています。この多くは、武田家軍記『甲陽軍艦』などに残る「厠で倒れた」という記述を江戸時代の軍学者・宇佐美定祐が「厠=トイレ」と解釈して広まったようです。

しかし「厠」には単に「トイレ」を意味するだけでなく、「私室」「静かな部屋」などの意味もあり、トイレと決めつけるのは無理があると指摘されています。現代の研究では、病気で倒れた後、数日を病床で過ごして亡くなった可能性が高いようです。

上杉謙信の諸説とは?

上杉謙信の死因をめぐっては、「厠で倒れた」という通説以外にも、毒殺説や女装説などさまざまな諸説が語られています。毒殺説は、敵や身内に謀られていたという想像から生まれたもので、確実な証拠などはありません。

女装説は、外見や性格をもとにした「上杉謙信が女だった」という仮説ですが、これも史料的な裏付けもなく、小説やドラマの世界で語られる話が中心です。また、ストレスや過労、脳出血に加えて心臓の病など、体力の限界による病死説も存在しますが、これらは現代の医学的解釈を加えた仮説の積み重ねのようです。

上杉謙信はなぜ名を残せたのか?

上杉謙信が歴史に名を残したのは、「戦国最強武将」としての実績と、戦いの「義」を重んじるイメージが強く結びついているからです。生涯で70回近い戦いをこなし、武田信玄との川中島の戦いや関東遠征などで卓越した戦略と機動力を示し、「軍神」と言われるほどの強さを見せました。

また、「敵に塩を送る」など正々堂々と戦い、敵にも情を示す武将像が後世に語り継がれています。このように実績だけでなく、戦場の正義の武将という人物像が、上杉謙信の名を数百年にわたって残す要因になっているのです。

上杉謙信が伝える「義」の名言

上杉謙信は「義」を行き方の柱とする武将として、多くの名言を通してその思いを伝えています。

名言意味
人の落ち目を見て攻めるは、本意ならぬことなり敵が苦境の時に攻めるのは不義である
生を必するものは死し、死を必する物は生く死を覚悟して挑めば生き残り、命を惜しむ者は死ぬ
運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり勝運は天に任せ、武具より勇気が大事である
大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、慈愛を持って衆人を哀れむ大将は、仁・義・礼・智・信という五つの徳を自分の行動の規範とし、慈しみの心をもって部下や民を思いやる

他に、「心に物なき時は心広く体康なり」(無欲の時は心も体も穏やか)などの「家訓16ヶ条 宝在心」があります。

「敵に塩を送る」逸話と意味

「敵に塩を送る」は、戦いの相手でも苦境に陥っているなら力で沈めずにむしろ救うという、「義」の象徴とされる逸話です。上杉謙信は宿敵・武田信玄の領地が塩不足だと知り、交易を通じて適正な価格で塩を供給したと伝えられ、そこから「敵に塩を送る」ということわざが生まれました。

この話は、敵を徹底的に追い詰めるのではなく、戦いのルールや人間としての情を守る武将像を象徴しており、現代でも使われる表現です。ただし、完全な忠実としての裏付けは一部に議論もあるため、美談として語り継がれている点に留意する必要があります。

戦国最強武将としての実績

上杉謙信が「戦国最強武将」と呼ばれるのは、圧倒的な戦績と戦場での戦いぶりが大きく影響しています。上杉謙信は生涯で約70回近い合戦に臨み、そのうち約60勝前後という高い勝率を見せたとされ、敗戦は極めて少数です。

武田信玄との「川中島の戦い」や、織田軍が関東に進出する手前の「手取川の戦い」などでは、相手の兵力が上回る中で機動性と兵団の統率力を活かして勝利を収めました。また、越後の内乱を収め、北陸・関東方面にまで進出を図ったことで、上杉勢力は戦国屈指の規模に成長しました。

それでも天下を獲れなかった理由

上杉謙信は「戦国最強武将」として圧倒的な戦績を残しましたが、天下統一には至りませんでした。理由の一つに「一戦一戦の勝ち」に全精力を注ぐ一方で、長期的な戦略や上洛・天下統一につながる方向性にあまり関心がなかったという説があることです。

また、越後を拠点にしつつ関東・北陸・信濃へと勢力を分散させたため、領土集中や全国的な基盤が十分に整わず、織田信長や豊臣秀吉のような構図を形成できませんでした。このように軍事力と「義」という強みはあるものの、戦略やタイミングで天下奪取には結びつかなかっ

たとされています。

上杉謙信のイメージを広げた『天地人』

NHK大河ドラマ『天地人』では、上杉謙信を軍神として畏怖しつつも、人間味のある指導者として描いており、戦国のイメージを一般に広く伝える役割を果たしました。この作品は戦国最後の理想を追い求めた上杉軍団の人間ドラマを描き、天地人 キャストも話題になりました。

劇中で上杉謙信は「天地人」(天の時・地の利・人の和)の理念を重視し、物語の核となる”愛”の精神を伝えています。戦歴や死因だけでなく、こうした作品を通して「上杉謙信とはどんな人物か」というイメージを捉えておくと、歴史記事と合わせてより楽しめます。

まとめ

上杉謙信の死因は、「厠で倒れて即死」という通説よりも、脳卒中や急病による病死が有力視されています。そして名言や家訓、「敵に塩を送る」逸話など、戦国最強武将として現代まで語り継がれています。NHK大河ドラマ『天地人』や映画・アニメなどでも「義」を重んじる武将像が、上杉謙信の名を長く歴史に残す要因になっているのです。

この記事を書いた人

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