戦国時代に天下統一を成し遂げた武将・豊臣秀吉の最後をご存知でしょうか?秀吉が死んだ原因に関する謎は多いため、気になっている人もいるようですね。
そこで今回は、大阪城を築いた豊臣秀吉の死因が天ぷらの食べすぎとの説を検証するとともに、子供や子孫についても調査しましたので皆さんにご紹介していきます。
豊臣秀吉の死因は天ぷらを食べ過ぎたから?
多くの謎がある、豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎによるものなのかについて、探ってみましょう。
死因は天ぷらの食べ過ぎ?
豊臣秀吉は、天ぷらを食べたことで急死したと噂されていますが、誤情報のようです。亡くなる前に天ぷらを食べた記録があるのは徳川家康であり、鯛の天ぷらを食べた後に体調を崩したとされています。徳川家康の話と豊臣秀吉が急死したことが混同され、世間に誤解が広まりました。
天ぷらは秀吉が活躍していた1500年代に、ポルトガルの宣教師が日本に伝えたとされており、彼が食していた可能性も否定できませんが、死因とは考えにくいでしょう。
死因は病死?
豊臣秀吉の死因で、有力視されているのは病死です。晩年の秀吉は下痢や腹痛、食欲不振に悩まされ、急激に痩せたと記録されています。手足の激痛や失禁の症状もあり、漢方薬も効果がなかったようです。また、亡くなっている千利休に築城を命じたり、お茶を飲んだ話をしたりするなどの奇行や記憶障害も見られました。
これらの症状から考えられる病として、大腸がん・赤痢・脚気・腎不全・梅毒・痴呆などが挙げられます。豊臣秀吉の死因は病死と言われていますが、当時の医療技術や記録の限界もあるため、詳しい病名は分かっていません。
豊臣秀吉に子供はいるの?
1598年に亡くなった豊臣秀吉に、子供はいるのかについて、1つずつ見ていきましょう。
女好きだが子宝に恵まれなかった?
秀吉は女好きで知られていますが、子宝には恵まれませんでした。正室のねねが、浮気を繰り返す秀吉を織田信長に訴えたとの逸話も残っているようです。
晩年になってからの秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれましたが、なかなか子宝に恵まれなかった原因は彼が男性不妊だったからではないかと言われています。また、秀吉の複数の側室が他の男性との間に子をもうけたとされる事例もあるため、彼が不妊だった可能性は否定できないでしょう。
実は子供がいた?
実子と言われている秀吉の子供は、どんな人物なのかについて、紹介します。
庶長子:羽柴秀勝 (石松丸)
石松丸こと羽柴秀勝は、豊臣秀吉の庶長子。秀吉が長浜城主だった時代に生まれたとされる最初の男児ですが、生年や生母には諸説あり、確かなことは分かっていません。
一説には側室・南殿の子で女児ももうけたと言われており、1576年に亡くなったことは史料で確認されています。また、長浜で行われる曳山祭は1574年、秀吉に男児が誕生したのを祝って始まったとする伝承があり、彼が長浜城主だった頃に羽柴秀勝が生まれた可能性は高いでしょう。
嫡男:豊臣鶴松
豊臣秀吉の嫡男・鶴松は、1589年に側室である淀殿との間に生まれました。秀吉にとっては待望の男児で当時53歳だったこともあり、息子の誕生に大喜びだったようです。秀吉は「棄て子はよく育つ」との民間信仰に基づき、長寿を願って子供に「棄」と名付けました。
その後に「鶴松」と改名され、石川光重が傅役として育てたようです。秀吉は生後4か月で鶴松を後継者にしようと考えて大坂城に迎え入れますが、体が弱かったため3歳のときに病気で亡くなっています。
次男:豊臣秀頼
1593年、秀吉が57歳のときに淀殿との間に生まれた次男が豊臣秀頼です。秀吉には子種がないとの噂があったため、実父は側近の大野治長ではないかとも言われていました。
すでに関白職を譲っていた甥・秀次を排除したことで、秀頼が正式な後継者となります。秀吉の死後に家督を継ぎましたが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことで豊臣家は一大名に転落しました。大坂の陣では1615年に大坂城が落城し、当時23歳だった秀頼は淀殿とともに自害して、生涯を終えています。
豊臣秀吉の子孫はどうなった?
子宝に恵まれなかったと言われる豊臣秀吉の子孫は、どうなったのかについて探ってみましょう。
子孫は途絶えた?
豊臣秀吉の直系の子孫は、1615年に秀頼が大坂夏の陣で徳川軍に敗れて自害したことにより、途絶えています。秀頼と徳川家康の孫娘・千姫の間にも子供はいないため、豊臣家は歴史の表舞台から姿を消しました。
一方で、秀吉には秀頼以外にも「大谷吉継」という子供がいたとされています。大谷には息子3人と娘が1人いたため、彼が隠し子であれば、秀吉の子孫は続いているのかもしれません。
秀頼の子供がいる?
秀吉の実子・豊臣秀頼の側室2人との間にもうけたとされる子供について、1人ずつ見ていきましょう。
国松
豊臣秀頼の長男・国松は、側室の伊茶の方との間に生まれた子で、正室・千姫をはばかって一時は淀の方の妹の嫁ぎ先である京極家に預けられていました。しかし、大坂の陣が始まると大阪城に呼び戻され、落城直前まで城内にいたとされています。
落城の際には城を脱出して一時潜伏生活を送りましたが、徳川方の厳しい探索から逃れられず、最終的に捕らえられて斬首されました。当時の国松は数え年で8歳だったと言われており、幼くして命を落としたため子孫はいません。
天秀尼(奈阿姫)
側室・成田氏と豊臣秀頼の間に生まれた娘は、天秀尼(奈阿姫)です。大坂城落城後に捕らえられましたが、女子であったことと義母・千姫の助命嘆願により命を救われ、尼僧となることで生き延びています。
天秀尼は鎌倉の東慶寺で尼僧として過ごし、気丈な人物としても知られていました。彼女は37歳で亡くなり、子孫を残さなかったため、豊臣秀吉の公的な血筋は絶たれています。
まとめ
今回の記事では、戦国時代を終わらせた立役者・秀吉の死因を中心に、子供や子孫は存在するのかについて紹介しました。
豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎとの情報に驚きましたが、病死の可能性が高いようですね。秀吉の子孫は途絶えたようですが、彼の波乱に満ちた生涯は人々の関心を集めたと言えるでしょう!