吉田松陰は何をした人?死因や原因は?最後の様子・言葉などまとめ!

吉田松陰は何をした人?死因や原因は?最後の様子・言葉などまとめ!

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明治維新を動かした多くの若者を育てた、吉田松陰をご存知でしょうか?29年という短い生涯でしたが、高杉晋作や伊藤博文たちに大きな影響を与えたようですね。

そこで今回は、不器用なまでに真っすぐな吉田松陰は何をした人物なのか、死んだ原因・最後の様子などを調査しましたので皆さんにご紹介していきます。

目次

吉田松陰は何をした人物?

いつでも学びに向かう吉田松陰は何をした人なのかについて、探ってみましょう。

『東北遊日記』を残した

15歳の頃にアヘン戦争で清国がイギリスに負けたことを知った吉田松陰は、日本の危機を確かめるために、20歳前後で長崎や平戸へ足を運びました。長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の進歩を直接目にして水戸や会津・佐渡などを訪ねながら、日本各地の実情を『東北遊日記』として残しています。

松陰は長州藩の下級武士に生まれ、叔父が病死したため5歳で吉田家当主となり、9歳で藩校・明倫館の教師見習いを務めるほどの才能の持ち主です。

黒船への密航を計画した

吉田松陰は黒船への密航を試み、失敗して投獄されました。24歳の松陰(1854年)は、ペリー艦隊の再来を機に海外の文明を学ぶため、下田に停泊していた軍艦へ小舟で近づき、外国へ連れて行ってほしいと願い出ます。しかし、松陰の申し出が受け入れられることはなく、陸に戻ると同行者と共に捕らえられて牢に入れられました。

松陰の行動はペリーの『日本遠征記』に記され、『宝島』の著者スティーヴンスンが短い伝記「ヨシダ・トラジロウ」を書いたことで、その名は海外にも知られています。

松下村塾を開いた

黒船への密航に失敗して牢に入れられ、翌年には免獄となった松陰は実家で幽閉生活を送ることになりました。そこで松下村塾を開いて高杉晋作や伊藤博文など、約80人の門人を指導します。松陰は諸国で見聞した経験と膨大な読書をもとに50冊以上の著作を残し、1859年に29歳で安政の大獄により江戸で処刑されました。

松陰が処刑前日に書いた『留魂録』は、弟子に志を託すことになります。また、江戸への投獄後に「野山獄」へ移された際、1年間で約600冊もの本を読んで黒船への密航を振り返った『幽囚録』も残しました。

吉田松陰の死因や原因って何?

危険を恐れない思想家・吉田松陰の死因や原因は何だったのかについて、見ていきましょう。

死因は斬首刑によるもの

安政6年10月27日、幕府の斬首刑によって処刑された吉田松陰。当時の日本では、最も重い刑罰の1つでした。執行場所は伝馬町牢屋敷で、処刑を担当したのは当時有名だった山田浅右衛門とされています。

処刑の背景には「安政の大獄」による弾圧政策があり、松陰は幕府に反逆する意志を持つ危険人物と判断されました。しかし、実際には弟子を育て、国を変えようとした教育者だったと言えるでしょう。歴史上、多くの人物が時代や政治状況の中で命を落としており、豊臣秀吉 死因も同じく注目されています。

処刑された原因とは?

松陰が処刑された原因は、幕府要人の暗殺計画を自ら認めたことです。「尊王攘夷」という考えを持っていた松陰は、天皇の許可なく日米修好通商条約を結んだ幕府に強く反発。幕政の中心にいた老中・間部詮勝を暗殺して体制を揺さぶろうとしますが、周囲が反対したため実行はされていません。

吉田松陰は取調べの際に計画を隠さず語り、「幕府を根本から変えるべき」との姿勢を崩さなかったようです。この態度が「思想だけでなく危険な行動意志を持つ人物」と受け取られ、安政の大獄の弾圧の中で斬首刑が決定されました。

吉田松陰の最後の様子や言葉は?

斬首刑で処刑された、吉田松陰の最後の様子や言葉について1つずつ見ていきましょう。

最後の様子は?

人生の最期は、揺るがぬ覚悟と堂々とした落ち着きに満ちていた吉田松陰。刑場へ向かう際には護送役の役人に「ご苦労様」と声をかけ、恐怖や不安を見せることはなかったようです。立ち会った長州藩士の小幡高政は、「髪や髭は伸びていたが眼光は鋭く、まるで別人のようだった」と、松陰の様子について証言したとされています。

松陰は処刑直前に鼻をかみ、静かに姿勢を整えて堂々と座って斬首を受けたようです。その毅然とした姿に、幕府の役人たちは「これほど立派な最期を迎えた者は、見たことがない」と語ったと言われています。

最後の言葉は?

吉田松陰の最後の言葉として処刑前に、家族や弟子たちに向けた遺書「留魂録」を残しました。また、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」という辞世の句も記しています。意味は、「自分の体は江戸で朽ち果てても、自分の志は決して消えない」です。

松陰は命を失っても、思想や志は弟子や仲間たちによって引き継がれることを表現しました。最期の言葉は死の覚悟を示すだけでなく、自らの理念と志を未来に託す強い意志を表したと言えるでしょう。

吉田松陰の死後の変化は?

立派な最期を迎えた吉田松陰の死後、世の中はどう変化したのかについて紹介します。

歴史が変わった

松陰の処刑は弟子たちに大きな衝撃を与え、松下村塾の門下生たちは師の教えを胸に刻み、幕府打倒に向けた具体的な行動を始めました。松陰の死から1年後の1860年には、彼の考えに影響を受けた水戸藩の志士たちにより、幕府の大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されています。

松陰の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞たちも、攘夷運動を積極的に推し進め、長州藩は幕府との対立を深めました。この一連の動きが倒幕運動の原動力となり、明治維新の実現へと繋がったと言えます。

「至誠の精神」は生きている

生涯で最も重視したのは、「至誠の精神」だった吉田松陰。誠意をもって行動すれば、必ず人の心を動かすことができるという考え方であり、弟子たちに「知識を学ぶだけでなく行動に移すことが大切」と教えました。

「至誠の精神」は当時の若者たちだけでなく、現代の政治家や経営者、教育者にとっても重要な指針です。実際、日本全国の学校や企業の理念には松陰の「至誠」の考えが取り入れられており、彼の思想は時代を超えて人々の行動や判断に影響を与え続けています。

まとめ

今回の記事では短い人生でありながら、影響力が大きかった吉田松陰は何をした人なのかを中心に、死因や最後の言葉などを紹介しました。

松陰は幕府要人の暗殺計画を自分から認めたため、処刑されたようですね。吉田松陰が亡くなった今も教えは受け継がれているため、歴史に触れることを楽しんでみましょう!

この記事を書いた人

はじめまして、れいと申します。
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