本能寺の変を引き起こした歴史上の人物として有名な、明智光秀をご存知でしょうか?天正10(1582)年6月2日に本能寺で織田信長を討ったとされていることから、注目している人もいるようですね。
そこで今回は「明智光秀の死因は?」や悲惨な最後・何をした人なのかについて調査しましたので、皆さんにご紹介していきます。
明智光秀の死因は?
明智光秀の死因は、以下のとおりです。
- 明智光秀が死んだ理由
- 明智光秀が逃亡中に起きた出来事
- 落ち武者狩りは想定内?
明智光秀が山崎の戦いの後に、どのように命を落としたのかについて紹介します。
明智光秀が死んだ理由
明智光秀が死んだ理由は、合戦の地から逃れようとして道中の竹やぶで土民に殺されたようです。天正10(1582)年6月13日の山崎の戦いで、多くの兵を失った光秀は、合戦の地からひっそり逃亡しました。13日の夜に龍寺城まで退却しますが、立て籠もることは考えなかったようです。理由は城の規模が小さく、籠城戦には不向きだったからでしょう。
曇天で星の明かりすらない暗い夜、光秀は坂本へ戻るために脱出したことで命を落としました。
明智光秀が逃亡中に起きた出来事
明智光秀が逃亡中に起きた出来事は、合戦の地から逃れる道中で、落ち武者狩りの土民に竹槍で襲撃されて致命傷を負ったことです。明智光秀は山崎の戦いで敗れたため、家臣の溝尾庄兵衛(茂朝)たちを連れ、秀吉軍に見つからないように久我縄手から伏見方面へ向かい、大亀谷を経て小栗栖まで出たところだったとされています。
悟った光秀は後のことを庄兵衛に託し、介錯をさせて自刃したようです。庄兵衛は光秀の首を鞍覆いに包み、竹やぶに隠して坂本へ走ったとされていますが、自害したともいわれています。
落ち武者狩りは想定内?
明智光秀が合戦の地から逃亡中に、突然落ち武者狩りに遭ったことは、想定内だったと考えられます。当時の農民は刀や槍で武装し、合戦が起こると負傷した落ち武者を狙って襲いました。一揆の落ち武者狩りも多く、光秀も戦場で華々しく散らずに土民の竹槍でひっそりと命を落としたことは不本意だったかもしれません。
光秀は落ち武者狩りの危険を承知の上で、逃亡したと考えられます。
明智光秀の悲惨な最後とは?
明智光秀の悲惨な最後は、小栗栖で討死した説が有力のようです。明智軍の主力・斎藤利三は山崎の戦いの直前、光秀に坂本へ戻るよう進言しましたが聞き入れずに出陣しています。
光秀が坂本に戻っていたら結果は少し変化し、竹やぶで土民に殺される最後ではなかった可能性はあるでしょう。信長を討った光秀の死因が、竹やぶで土民に殺されたことなら、むなしい最期に感じたかもしれません。
光秀最後の地は「明智藪」と呼ばれましたが、現在では宅地化されたようです。
明智光秀は何をした人?
明智光秀は具体的に何をした人なのかを知りたくないですか?光秀の当時の活躍を探ってみましょう。「明智光秀の功績」や「本能寺の変」について解説します。
明智光秀の功績
明智光秀は安土桃山時代の末期、戦国時代に活躍した武将の1人です。出身は現在の岐阜県(美濃国)とされていますが、どこで生まれてどんな家柄だったかは明確ではありません。光秀は室町幕府第15代征夷大将軍の足利義昭に仕えたことで織田信長と出会い、最終的に直接の家臣となりました。
光秀は一向一揆を鎮めるための比叡山焼き討ちで、実行部隊としての活躍が認められたため、所領(坂本城)が与えられています。その後は丹波の平定においても活躍し、1579年には福知山城も築城して織田家トップクラスの武将へと躍り出ました。
本能寺の変
明智光秀が引き起こした本能寺の変では、信長の命を奪ったことで有名です。光秀が本能寺の変を起こした理由については、明確ではありません。光秀は織田家で重臣として扱われ、戦功を認められて所領も与えられました。織田家の武将の中でも信長に深く信頼され、優遇されていたようです。
織田信長は将来への不安を感じており、成果を上げた家臣には報奨を与えましたが、失敗した場合の処罰も厳しく重臣でも追放していました。信長は多くの敵を作っていたため、光秀が別の黒幕に操られていた説もあるようです。
まとめ
今回の記事では「明智光秀の死因は?」を中心に、悲惨な最後・何をした人なのかについてご紹介させて頂きましたがいかがでしたでしょうか?
明智光秀は本能寺の変で、織田信長を討ったとして有名ですが、大事件を起こした理由は明確ではないようですね。明智光秀の死因も参考にして、さらに歴史を学んでみましょう!