戦国時代のヒーローの1人で、「日本一の兵」と呼ばれた真田幸村の死についてご存知でしょうか?1615年の大坂夏の陣で壮絶な最後を遂げたと言われていることから、注目している人もいるようですね。
そこで今回は、真田幸村が死んだ場所や最後、首はどうなったかについて調査しましたので、皆さんにご紹介していきます。
真田幸村が死んだ場所や最後は?
真田幸村が死んだ場所は、大阪市天王寺区にある安居神社です。神社には「真田幸村戦死跡」の碑と銅像があり、幸村が戦死したとされる場所にあった一本松は枯死。1951(昭和26)年に社殿復興を記念して植樹しています。
2014年と2015年は大坂の陣から400年を迎えたこともあり、安居神社が話題になったようです。また、NHK大河ドラマ真田丸は再放送できないと言われていますが、最後の舞台としても注目を集めました。
戦場での最後について
大坂夏の陣で最後を迎えた真田幸村。彼の戦いぶりは、最後の武士そのものだったと言えます。徳川軍15万に対し、豊臣軍は5万という不利な状況でしたが、幸村は徳川家康の本陣に何度も突撃したと言われています。
幸村は戦場を駆け回り、疲れ切るまで戦い続けて力尽きました。安居神社(大阪市天王寺区)の境内にあった一本松の下で休んでいたときに、松平忠直の家臣・西尾宗次に討ち取られたようです。
最後の言葉とは?
戦国時代の武士にとって『最後の言葉』は重要で、真田幸村は「この首を手柄にせよ」と敵に言い残したことから、勇敢な武士として潔く死ぬ覚悟をしていたと推測できます。
幸村の最後の言葉には諸説あり、一部の記録は以下のとおりです。
- 自分を討ち取ったことを誇りに思え
- 戦い抜いた自分の死をしっかりと証明せよ
解釈の仕方はさまざまで、幸村が実際に言い残した言葉を断定することはできません。
真田幸村の首はどうなった?歴史の謎を調査
武将の首は倒したことの証明になるため重要であり、真田幸村のものは徳川家康に届けられました。幸村の顔は激しい戦いで判別しにくい状態だったので、首実検が行われます。首実検は確認する儀式のことで、「歯が2本欠けていた」「鹿の角の兜をかぶっていた」などの特徴から幸村の首と認められたようです。
幸村を討ち取った西尾宗次は松平忠直の家臣だったため、首は福井に持ち帰られて供養のために首塚を作ったとされています。しかし、埋められたのは幸村の首ではなく鎧の袖だったと言われており、埋葬された場所は明確ではありません。
首はどこにいった?
幸村の首は、別の場所にひそかに埋葬したとの説があり、理由は真田家の遺族が奪い返しにくることを恐れたから。諸説ある幸村の首についての詳細は、以下のとおりです。
- 豊臣方の武将たちが幸村の首を回収して大阪で供養した説
- 鹿児島県に幸村の墓があるという説
大阪で供養したという説には確証がないため、歴史の謎の1つと言えます。一方で、鹿児島県に幸村の墓があるという話は、死亡することなく薩摩に逃れて生存したとの説と結びついている可能性があるからです。
まとめ
今回の記事では、真田幸村が死んだ場所を中心に、どんな最期を迎えて首がどうなったのかについて紹介しましたがいかがでしたでしょうか?
幸村の最後の言葉には驚きましたが、武士として潔く死ぬ覚悟をしていたのかもしれませんね。幸村の最期は諸説あるようですが、亡くなった場所や最後の言葉を参考に、歴史について学んでみましょう!