戦国時代〜江戸時代初期にかけて活躍した武将で、NHKの大河ドラマでも話題になった黒田官兵衛をご存知でしょうか?軍事的才能に優れ、竹中半兵衛と共に豊臣秀吉の参謀としても有名なため、注目している人もいるようですね。
そこで今回は、黒田官兵衛の死因は梅毒なのか、お墓の場所や遺体について調査しましたので、皆さんにご紹介していきます。
黒田官兵衛の死因は梅毒?理由や真相
黒田官兵衛の死因は判明していませんが、一説によると梅毒とも言われており、考えられる症状は以下のとおりです。
- 頭に大きな瘡があった
- 歩行障害があった
- 死ぬ間際に家臣たちを罵り始めた
梅毒は当時の流行り病だったので、官兵衛が感染していてもおかしくはありませんが、否定され始めています。死因が梅毒ではないと考えられる理由は、以下のとおりです。
- 頭の瘡:不衛生な環境でノミやシラミがいた
- 歩行障害:栄養失調や心理的ストレス
- 罵詈雑言:世代交代のための作戦
結果的に官兵衛の病名は、特定されていません。
死ぬ間際に病気のせいで乱心した?
黒田官兵衛は死ぬ前に、病気が原因で家臣たちを罵り始めたようです。官兵衛は家臣たちからの信頼も厚かったので、突然の乱心に周囲は動揺しました。しかし、乱心については官兵衛の作戦だったとも言われています。
官兵衛の死後、息子の長政が家を継ぐことに不安を感じていた家臣もいたため、罵ってスムーズに代替わりできるようにしたようです。家臣たちから官兵衛をどうにかするように頼まれた息子の長政は、父に事情を話します。官兵衛は長政のことを考えて行なったことであり、気が狂ったわけではないと息子に伝えたようです。
黒田官兵衛のお墓の場所は?遺体はどうなった?
官兵衛の墓や遺体がどうなったのかについて、紹介しましょう。
お墓の場所はどこ?
黒田家の菩提寺である「崇福寺」には、福岡藩主歴代の墓があります。京都から博多に戻った黒田官兵衛の亡骸は、キリシタン墓地に隣接する林の中に埋葬されました。
官兵衛と息子・長政の墓は並んで配置されており、場所は以下のとおりです。
- 名称:福岡藩主黒田家墓所
- 住所:福岡市博多区千代4-7-79
- 見学:10:00〜16:00(毎週土曜・日曜・休日のみ)
- 料金:無料
官兵衛と長政親子のロマンに触れられる絶好のスポットと言えます。
病気療養のため京都で亡くなった?
黒田官兵衛は、1604年3月に京都の伏見で息を引き取っています。1603年10月頃までは、福岡城や太宰府天満宮に構えた草庵で暮らしていましたが、病気がちになったようです。
同年11月には有馬温泉に逗留し、体調も良くなったので伏見の藩邸で過ごしていましたが、翌年2月頃に病状が悪化したとされています。官兵衛の死骸は、残された遺言に基づいて地元の博多に送られました。
NHKの大河ドラマである軍師官兵衛が再放送できない理由は、こちらから確認できますので参考にしてみてください。
遺言でイエズス会に多額の寄付をした?
黒田長政はイエズス会に多額の寄付(約320石相当)をし、父のために盛大なキリスト教式の葬儀を行いました。熱心なキリシタンだった黒田官兵衛は、前々から「キリスト教徒として死にたい」と言っていたようで、残された遺言の内容は以下のとおりです。
- 官兵衛の死骸を博多の神父の元へ持ち運ぶ
- 長政が領内で神父たちに好意を寄せる
- イエズス会に2000タエスを寄付する
官兵衛が亡くなった際は祈祷文とロザリオを置き、懐に家臣との絆の証を納めたとされています。
まとめ
今回の記事では、黒田官兵衛の死因を中心に、墓の場所や遺体はどうなったのかについてご紹介させて頂きました。
黒田官兵衛の死因は諸説あり、断定できないようですが、京都の伏見で最期を迎えたようですね。官兵衛と長政親子の墓を訪れたり、ドラマを観たりして歴史に触れてみましょう!